○ 不登校の子供に堪忍袋の緒が切れる

最初の2日だけ息子は通いましたが、すぐ不登校になりました。理由を問いつめるにも息子は下をうつむくばかりでした。ムスッとした表情で・・・
「どうしてわかってくれないの!」「がまんしなさい!」私の堪忍袋の緒が切れました。私もノイローゼ状態で一杯一杯でしたから全く余裕がありませんでした。

それまでは怒鳴りつけるのは良くないと思って、ある一線を越えることを注意していましたが、私は鬼婆に形相も心もなりました。つまりヒステリー状態です。
「出て行きなさい!」と最後にいいました。そのとき言ってはならないことを言ってしまったなと思いましたが、あのとき息子が本当に家を飛び出したら、まだ救いがあったかもしれません。

でも息子は動こうとはしませんでした。一個の巌といった感じで固まってしまいました。ぼろぼろ涙を流し、下をうつむき、床の一点を凝視していました。
握った拳が震え、口をぎゅっとかみしめていました。 私がそれ以上何か厳しいことを言ったら、母子関係の絆が壊れてしまう、そう確信しました。

つまり子供が母親に暴力以上のことを加える一線を越えてしまうこと、その瞬間、異常な恐怖を覚えました。走馬燈のように世間の母子間の殺人症が事件のことが駆けめぐったと思います。そのときは私も心が錯乱していて、よく思い出せませんが、身のすくむ恐怖感だけは思い出すだけでもぞっとします。私も精神的に追い詰められていました。完全にノイローゼ状態です。

あくまでこれは私の勝手な心境です。 そのときの息子の心境はわかりません。そこまで精神的にギリギリの状態になっていたことを汲み取ってもらえればと思います。最愛の子供に刺される、殴られる、殺されることほど悲劇的なことはありません。

○ 私の精神状態がギリギリに

二度目も私が息子に負けました。もう後戻りできないところまできてしまったと途方に暮れました。
スクールカウンセラーのアドバイスはどれもあたりさわりのないものばかりで、別のカウンセリングルームに相談するようにしました。
息子はやっぱり嫌がり、その頃からひきこもり生活も始まったのです。

どんどん事態が悪化している無力感と将来への絶望で、私にはもう安らげる時間はありませんでした。子供の不登校、夫婦仲の悪さ、将来への不安、私自身の心身症やうつやパニック兆候…
はやくここから脱出したいと思い始めました。
子供のことだけに100%頭が支配され、友達に旅行やショッピングに誘われても断らざるを得ませんでした。

若い頃はよく遊び、旅行にも行き、心の鬱憤を発散することに長けていた人間ですが、今は抑圧ばかりをためる人生になっていました。
早くこの家から出たい、ギリギリの神経状態から抜け出したい、ホッとしたい! 
それらが できなかったのは、息子が私が長時間家にいないとものすごく不機嫌になったからです。夕食の買い物が一番長い私の外出でした。
私に家にいてもらいたいくせに、家では心を開かない。

○ 子供や夫の問題関係なしに常に苦しくなる

腹が立ってどうしようもないときもありましたがが、「ある一線」を越えて叱りつける恐怖もありました。
暴発するタイプだとカウンセラーからも聞かされていただけに・・・・。でも私が暴発しそうでした。
そのはけ口は夫に向かいました。夫がいないときは物に当たりました。
もうキチ○イになりそうでした。あの子はつらいことから避けて、ただテレビゲームをやって、勉強もしないで生きていればいい、親に養ってもらってのうのうと暮らせばいい、その人生の不条理といったらありません。

私のパニック障害(過呼吸が頻繁に激しくなっていった)とうつ病一歩手前の抑うつ状態の中で、私も心もグロッキー状態になっていきます。息子がいなくても、勝手に自動的に私の心はきしんだ音を立てて私を苦しめるようになりました。私の絶望感は次第に激しくなっていきました。

○ フリースクールでの絶望

私はあの子を養わなければならない。将来、困ったことがないようにお金を貯めなければならない。
そのためにも夫とは別れられないし、息子の面倒を見なければいけない。

その重圧は日々私の心をむしばんでいきました。生き地獄というのはこのことを言うんだなと思うと、私の人生って何だろうとなります。
鬱病にもうはまっていたでしょう。とりあえず息子をフリースクールに通わせることになりました。

もちろん息子は嫌がりはしましたが、そのときは結局いざこざもないまま通ってくれるようになりました。フリースクールに通ってくれて、私の神経症も幾分和らいでくれました。息子のいないときだけが私のホッとできる時間で、過呼吸も少なくなってくれました。
精神科(心療内科)に行って薬をもらおうとしていたのを思いとどまるぐらいにはなりましたね。

でも息子の様子はいっこうに変わりません。フリースクールの先生や職員も困っているようでした(実際どうかわかりません)。
「ああ、、ここでもだめか」と絶望を感じました。
誰に話しかけられても、言葉で返しもしないし、下をずっと向いたまま反応すらしません。
困り切ったフリースクールの人から、「ここではちょっと・・・・他になにか探されたら・・・・」とさじを投げる言葉を暗に言われました。
絶望感にうちひしがれました。夫は「困ったな」と言っただけで、それ以上何も言いませんでした。

私にほとんど負担を押しつけて、この不登校問題、ひきこもり問題から避けようとする夫の言動が私は苦しめたのは言うまでもありません。
ちょっとのことでも気が立っていたのは間違いないようです。私はすでに病んでいました。

ほっとする時間も次第になくなり、比例するように過呼吸と息苦しさ、何をしても楽しめない抑うつ状態が悪化しました。

○ 抑うつ状態がますますひどく

このままで私が先に潰れると自己防衛本能がある夜、急に私を襲いました。恐怖感と一緒に。
目が覚めたとき寝汗で信じられないくらいの汗をじっとりとかいていました。後にも先にもそれだけです。
そのころはもう完全に不眠症でした。精神科に通い始め、精神安定剤や抗うつ剤や睡眠導入剤を処方してもらうようになりました。

私の唯一の幸せは昼寝をすること。起きるとつらい現実が待っている。
ついに精神安定剤に逃避するようになりました。

時々息子を叱りつけることもありましたが、ぎりぎりセーブして一線を越えないようにしながらなので、抑圧と鬱憤はたまる一方でした。
もう感情すべてを全開で発散できたら、まだ違っていたと思います。

こんなに抑圧がたまり続けてもよく私は平気だなと変に自分を褒めることもありました、やけくそ気味ですが・・・。
叱ると息子は心をすぐ閉ざし、全く反応がなくなります。暖簾に腕押しでは気力も使い果たしてしまいました。
ずっとこのころ、私と息子は堂々巡りを繰り返していたのです。

視野が狭くなると解決をますます遠のかせてしまいます。
こういう時こそ、一呼吸も二呼吸もおいて、冷静に客観的に対応して下さい。
母親がパニックになると、子供の心は引き裂かれます。罪悪感を感じるからです。彼らもちゃんと感じて生きているんです。

○ 完全にパニック障害(過呼吸と息苦しさ、パニックの予期不安状態)に

あるとき、私は今までにない過呼吸に陥りました。家事をやっているとき、苦しいな、と思い始めた途端、最悪の過呼吸が襲ってきたのです。
あまりのことに私は死の恐怖に支配されました。。
パニックがますます過呼吸を助長して、救急車を呼びました。

息子は部屋から出てきません。そのときどんな気持ちでいたんだろう。気づいていたのか? 怯えていたのか? 無反応だったのか? 助けようとする気持ちはなかったの? 
結局、病院では異常はないといわれ、行きつけの精神科の先生にパニック障害と言われました。
その薬ももらうようになり、あまり頼ってはいけない薬の副作用の恐怖に怯えながらも、依存し始めました。

息子を支える立場でありながら、精神的にも肉体的も私のほうが先にダウンしてしまったのです。パニック症がの苦しさと言ったらありません。何をするにしてもパニック発作が起きるんではないかという不安に襲われました。息苦しさを感じ、それがずっと続くのです。吐き気もし、体が悲鳴を上げました。毎日毎分が苦しく、逃れたくても私が起きている間中、私を不安と恐怖で苦しめるのです。そして過呼吸になった時の死の恐怖と苦しさ、また過呼吸になったらどうしようという予期不安、安楽な場所がなくなったという絶望感、全然進展のない子供の問題・・・・・未来はありませんでした。

○ 息子の危険な兆候

あるとき、息子のいとこが息子を外出に連れ出してくれました。私の妹の息子で、息子と昔から仲が良く、いい兄貴分といった感じでした。
久々の息子の外出でホッとしましたが、あとでいとこの子から衝撃的なことを入れました。

息子がナイフをもっているということです。いとこが見つけてそれを取り上げようとしたけれど、息子は絶対手放そうとしなかったそうです。
それを聞いて私は末恐ろしくなりました。いつ手に入れたんだろうと思いました。
「ある一線」の恐怖はそのとき以来ますます大きくなりました。ナイフを私は取り上げましたが、得体の知れない恐怖感は消えませんでした。
今となっては、自己防衛のために持っていて、外への攻撃のために持っていたのではないと思いますが、それがいつ暴発するとも限りません。
そのときナイフがあったら・・・社会面で報道される事件になるのは間違いないでしょう。

パニック障害により外出も非常にしんどくなりました。それでも歯を食いしばり必死で家事をこなしました。何とかだましだまし生き抜いていたのです。これ以上耐えられないというほど私は耐え続けていました。この状態が続けば当然うつ病になります。私の心も体も脳もすべてガタが来ていました。私の楽しかった青春時代は一体何だったんだろう? 

この苦しみがあるから、神様が私に情けを与えて楽しませてくれたのかもしれない。そしてパニック障害とうつ病と不登校問題で苦しむのが、本当の私の人生なんだと考えると、ますます症状が悪化していきました。

<まだまだ続きます>

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